• 第482話『つり合いの中で生きる』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】建築家 ブルーノ・タウト-
    Nov 23 2024
    都市計画と集合住宅のレジェンドとして知られる、ドイツの建築家がいます。
    ブルーノ・タウト。
    彼はヒトラーの台頭に危機を感じ、建築家仲間の知己を頼って、日本にやってきました。
    京都、仙台などに滞在したあと、1934年8月、群馬県高崎市のある小さな住まいに移ります。
    それが、少林山達磨寺の、心を洗うと書く「洗心亭」。
    滞在は予定を上回り、2年3か月もの間、日本での暮らしを堪能しました。
    彼がそのときの様子を記した日記や絵は、1930年代の日本を映す貴重な資料として、今も大切に保管されています。
    洗心亭は、6畳と4畳半、二間の質素な平屋。
    しかし、入ったその日に、タウトはここが気に入りました。
    建物を取り囲む、豊かな自然。木々のざわめき、鳥の声。
    障子から差し込む陽の光に、わびさびを見出す。
    もともと日本文化に傾倒していた彼にとって、そこは、楽園だったのです。
    日本にいる間、思うように建築家としての仕事はできませんでした。
    たまに設計の発注があっても、西洋風で斬新な建築を望まれ、いかにも日本風のデザインを推し進める彼との間に、深い齟齬が生まれてしまいます。
    それでもタウトは、洗心亭での暮らしだけで、十分、幸せでした。
    日々のうつろいを、丁寧に楽しむ生活。
    彼が建築で最も大切にしたものは、「つり合い」でした。
    建物自体のつり合い。まわりの環境とのつり合い。そこに暮らす人間とのつり合い。
    人生も、決して独善的であってはならない。
    必ず、一緒にいるまわりの人との「つり合い」の中で、生きていく。
    日本人が忘れていた「日本的な美」を提唱した、唯一無二の建築家・ブルーノ・タウトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第481話『見ること、聞くこと、感じること』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】小説家 徳冨蘆花-
    Nov 16 2024
    群馬県の伊香保温泉でこの世を去った、明治・大正期の文豪がいます。
    徳冨蘆花(とくとみ・ろか)。
    幼少期より病弱だった蘆花は、自分の心や体の変調に敏感でした。
    破天荒で自由人。時にわがまま、傍若無人。
    でも、こよなく自然を愛し、体を整えるために旅を好み、しばしば、伊香保温泉を訪れていました。
    自分に海が必要とあらば、神奈川の逗子で暮らし、山間を欲すれば、伊香保におもむく。
    そして晩年、妻と農業をやりながら住んだ地は、東京、千歳村粕谷。
    現在の世田谷区、蘆花公園です。
    彼の名がついた庭園には、今も旧宅が保存され、緑豊かな自然が残っています。
    徳冨蘆花の名を世に知らしめたのは、明治31年11月29日から国民新聞に連載された小説でした。
    題名は『不如帰(ほととぎす)』。
    主人公、浪子は、実家の継母に苛められ、嫁いだ先の姑に苦しめられ、やがて夫は日清戦争に出征。
    ひとりになった彼女は結核となってこの世を去る、というストーリー。
    流行の兆しがあった家庭小説というジャンル、そして、女性の苦悩をひたすら描いた斬新さと、結核という当時の感染症のリアルな描写に、読者は次号を待ち望みました。
    この小説は、「あ丶辛い! 辛い! ――最早(もう)婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。」という流行語を生みました。
    さらに、夫の出征を見送るシーンで、浪子がハンカチを振ったことを受け、「別れ」に「ハンカチを振る」ことがスタンダードになったと言われています。
    蘆花は、逗子にいた頃、ある女性から聞いた逸話を、『不如帰』という小説に脚色したと、自ら認めています。
    彼は生前、よく知人に話していました。
    「私は、見たこと、聞いたこと、感じたことしか、書けない」
    ゼロから想像して書くひとを決して否定はしませんでしたが、自分の流儀は、あくまで、自然主義。
    この世を美化しない。ファンタジーでごまかさない。
    そのことで周りとの軋轢を深め、時に誹謗中傷を受けましたが、彼は終生、己の主義を貫いたのです。
    あえて茨の道を選んだ作家、徳冨蘆花が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第480話『誰かの真似をしない』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】絵師 円山応挙-
    Nov 9 2024
    群馬県立近代美術館にその絵が所蔵されている、江戸時代の大人気・絵師がいます。
    円山応挙(まるやま・おうきょ)。
    応挙と言えば、先月、新たな発見を、ネットや新聞が大きく報じました。
    それは、絵師として人気を争った、かの伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)との初の合作屏風が見つかったのです。
    若冲と応挙、それぞれが得意とした題材を描いた、初の合作屏風。
    これは「驚くべき発見です!」と美術史家で、明治学院大学教授の山下裕二(やました・ゆうじ)さんは語ります。
    左の屏風、左隻は若冲が鶏を、右の屏風、右隻は応挙が鯉を描きました。
    発注者が別々にお題を与え、依頼したものだと思われますが、当時、人気を二分していた二人にとっては、まさに競作、競い合った、稀有な一品です。
    この作品は、来年6月21日から8月31日まで大阪中之島美術館で開催の「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」で公開されます。
    京都のひとに、いまだに「応挙さん」と親しみを込めて呼ばれる、唯一無二の画家、円山応挙。
    彼は当時としては珍しく、どの流派にも属さず、生涯仕えた師匠もいませんでした。
    室町から400年続く狩野派の勢いは止まらず、中国の絵画の影響も大きかったその時代に、なぜ、彼は独学で成功を収めることができたのでしょうか。
    貧しい農家に生まれ、10代で奉公に出てから30代前半まで、ひたすら食べるために働き、絵師として生計が立てられることなど、夢のまた夢。
    ただ、好きな絵だけは、画き続けました。
    しかも彼が大切にしたのは、目の前のものを正確に画く技術。
    愚直なまでに、今、見えるものを忠実にとらえる心。
    破天荒で芸術家気質のライバルたちと違い、ひたすら真面目に生きることで、彼はチャンスを得たのです。
    観るものを没入させる江戸時代の天才画家、円山応挙が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第479話『天地の理を知る』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】キリスト教思想家 内村鑑三-
    Nov 2 2024
    明治時代、欧米化の波にのまれそうになる日本人に、いかに生きるべきかを示した思想家のレジェンドがいます。
    内村鑑三(うちむら・かんぞう)。
    その名は聞いたことがあっても、いったい何をした人なのか、どんな思想を持っていたのか、明確に答えられる人は、案外、少ないのかもしれません。
    それもそのはず、内村の生き方、思想は、混乱、混迷の連続。
    札幌農学校時代に、キリスト教の洗礼を受けますが、アメリカに留学した際、キリスト教の在り方に疑問を持ち、反感を買う。
    愛国心が人一倍ありながら、教育勅語の前で最敬礼をしなかったことが、社会的な大事件に発展。
    どこにいても敵をつくり、どんな組織に入っても周りと齟齬(そご)を深め、退職、辞任、解雇。
    転がる石のごとく、流され、ぶつかり、ひとつの場所に留まることができない、70年あまりの生涯でした。
    群馬県の高崎藩士の息子として生まれた彼は、少年時代の一時を高崎で過ごします。
    自然豊かな森や山、そして川。
    特に渓流に足をつけ、川魚を見るのが好きでした。
    素早く動く、美しい魚たち。
    ある法則性がありそうで、自由で、シンプル。
    内村少年は、そこで初めて、命がどこから来て、どこへ去っていくのか、想いを巡らせます。
    数々の試練を経て、彼が思い至った結論は、「天地の理(ことわり)」と共に生きるということ。
    ひとは、自分の価値観で生きる。
    しかし、ともすれば自らの価値観にがんじがらめになって、身動きがとれなくなる。
    そんなとき、視点をふわっと宙に放ち、天に預ける。
    人間には誰しも、天が定めた仕事がある。
    それを全うすること。
    それこそ、命をいただいたことに対する恩返しではないか。
    内村は、その考えを、二つのJから学んだのです。
    ひとつが、ジーザス、キリストのJ。
    もうひとつが、JAPAN、ニッポンのJ。
    批判、非難、誹謗中傷の嵐の中、天命を全うした賢人、内村鑑三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第478話『自分にyesと言える生き方を選ぶ』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】ロック・バンド ザ・ビートルズ-
    Oct 26 2024
    1966年6月30日から7月2日までの3日間、日本武道館で初めてロックのコンサートを開催した、伝説のアーティストがいます。
    ザ・ビートルズ。
    生で演奏する彼らを見ることができた、最初で最後の公演。
    実現に至るまで、多くの苦難がありました。
    神聖な武道を行うための場所で、キャーキャーと黄色い声が飛び交うコンサートなど、ありえない。
    日本武道館初代会長の正力松太郎(しょうりき・まつたろう)は、「ペートルスとかなんとかいうやつに、武道館は使わせない!」と豪語したと言われています。
    今でこそ、若いアーティストの憧れの演奏場所であり、ポップ・ミュージックのコンサートが頻繁に開催されていますが、当時は、一度クラシックのコンサートが開かれたくらいで、柔道や剣道、公的な行事以外の使用はほとんどありませんでした。
    しかし主催者側は、世界を席巻していたイギリスのロック・バンドの日本公演は、この国を象徴する会場で行いたいと必死だったのです。
    正力会長はなんとか説得できたものの、ビートルズの武道館公演に反対する勢力は激化していきます。
    街宣車に、脅迫電話。
    大規模な警備体制が求められ、1万人の観客に対し、配備された警察官は3000人。
    観客が近づけないように、アリーナ席は撤去。
    厳戒態勢の中、彼ら4人は、日航機のタラップを降りました。
    こうしておよそ100時間の彼らの滞在時間がスタートしたのです。
    ビートルズは、この年の8月にコンサート活動をいっさいやらないことを決めます。
    彼らは、表現の場をレコードに移し、破格の挑戦を続けるのです。
    1962年にデビュー、そして1970年に解散。
    わずか8年あまりの活動で、今なお世界中の人々を魅了する、ロック・バンドのレジェンド、ザ・ビートルズが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第477話『己の美学を貫く』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】建築家 山田守-
    Oct 19 2024
    日本武道館の設計を任された、建築界のレジェンドがいます。
    山田守(やまだ・まもる)。
    1964年に開催された東京オリンピックの、柔道会場として建設された日本武道館。
    皇居北の丸の北部、およそ1万平方メートル、延面積2万8千平方メートル、収容観客数、およそ1万人。
    当時の金額で、総工費20億円。
    日本の伝統、お家芸を世界中に知らしめる、壮大なプロジェクトでしたが、設計コンペが行われたのは、前年の夏のことでした。
    早急な図面づくりに、短い工期。
    指名されたにもかかわらず、コンペを辞退する設計士もいました。
    そんな中、山田は、コンペに参加し、勝ち抜いたのです。

    彼の構想には、明確な二つのモチーフがありました。
    ひとつは、聖徳太子が祀られていると言われる、法隆寺夢殿。
    八角形は、古代中国からの風水に習うもの。
    「8」は、仏陀誕生の日付であり、聖なる数字として大切にされてきました。
    さらに限りなく円に近いフォルムの美しさを、山田は好んでいたのです。
    彼がイメージしたもうひとつのモチーフ。
    それは、富士山。
    彼は富士山の裾野の曲線を、最高の「美」と捉えていました。
    スタッフの前で、製図版に向き合う、山田。
    彼は数値でも定規でもなく、フリーハンドで曲線を描きました。
    何度も何度も、自分がこれだと思う曲線が画けるまで、やりなおす。
    やがて、納得できる曲線が引けたとき、ようやく数値を計算。
    図面が形になっていくのです。
    しかし、翌朝、その図面を見ると、やっぱり何かが違うと、また、曲線を描く、山田。
    彼のお手本は、あくまでも、富士山の美しい裾野の曲線だったのです。
    法隆寺夢殿と、富士山。
    その二つを具現化した世界に誇る建築物、日本武道館を設計した山田守が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第476話『信じることをやめない』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】歌手 オリビア・ニュートン・ジョン-
    Oct 12 2024
    1976年12月1日、日本武道館で、女性ソロ・アーティストとして初の単独公演を行った、レジェンドがいます。
    オリビア・ニュートン・ジョン。
    ささやくように歌い始めた『Love Song』という楽曲が、武道館の会場内に沁みわたっていきます。
    およそ1万人のファンが待ち望んだ来日公演。
    美しく、知的で、笑顔を絶やさない、ブロンドヘアーの歌姫に、魅了されました。
    ラストには大ヒット曲『I Honestly Love You』、邦題『愛の告白』を熱唱。
    この曲でオリビアは、前年の3月、第17回グラミー賞を受賞しました。
    プレゼンターは、ポール・サイモン、そしてもうひとりは、ジョン・レノン。
    ツアー中で不在だったオリビアの代わりにトロフィーを受け取ったのは、アート・ガーファンクルでした。
    このとき、オリビア・ニュートン・ジョン、27歳。
    名実ともに、アーティストとしての絶頂期を迎えていました。
    この後、『そよ風の誘惑』や『ジョリーン』など、ヒット曲を連発します。
    1978年には、女優デビュー。
    映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演し、興行成績も大成功を収めました。
    家族にも恵まれ、順風満帆だった彼女でしたが、1992年、44歳のときに病魔が襲いかかります。
    乳がん。
    その後、73歳で亡くなるまで、闘病生活は続きました。
    彼女は自身もがんと闘いながら、オーストラリア・メルボルンに「オリビア・ニュートン・ジョンがん健康研究センター」を設立。
    多くの患者のために、奔走したのです。
    どんな苦難が押し寄せても、彼女は前を見て、笑顔を忘れませんでした。
    シンコーミュージック・エンタテイメント発行、中川泉 訳『オリビア・ニュートン・ジョン自伝』の副題は、こうです。
    Don't Stop Believin' 信じることをやめないで。
    今も聴くひとの心をなぐさめる、唯一無二のシンガー、オリビア・ニュートン・ジョンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    12 mins
  • 第475話『不可能は先入観にすぎない』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】ボクサー モハメド・アリ-
    Oct 5 2024
    1976年6月26日、日本武道館は、およそ1万人の観客の熱気に包まれていました。
    伝説の「格闘技世界一決定戦」。
    映像は世界に配信され、10億人を超える人たちが、試合開始のゴングを待っています。
    アントニオ猪木の対戦相手は、世界ヘビー級チャンピオンでした。
    伝説のボクサー、モハメド・アリ。
    当時、アリは34歳。2年前にタイトルを奪還したばかりです。
    1974年10月30日、ザイール王国の首都キンシャサで行われた、WBC世界ヘビー級タイトルマッチ。
    王者ジョージ・フォアマンは上り調子の25歳。
    かなりのハードパンチャー。
    ロンドンのブックメーカーでは、11対5でフォアマン勝利、でした。
    誰もがマットに倒れこむアリを予感し、引退する彼を想像していたのです。
    新聞はこぞって、アリが勝つのは不可能だと書きました。
    しかし結果は、第8ラウンド2分58秒で、アリがまさかのKO勝ち。王座を奪い返したのです。
    世に言う『キンシャサの奇跡』。
    試合後のインタビューでアリは、カメラに向かって豪語します。
    「オレを疑った批評家たち! 見たか! オレこそが、世界一、史上最高なんだ! わかったか!」
    アリは、なぜか、「絶対無理」「不可能」という言葉に、敏感に反応しました。
    彼はこう言います。
    「不可能は、可能性なんだ。いいか、不可能っていうのは、自分の力で世界を切り開くことを放棄した、臆病者の言葉だ!」
    キンシャサの後、いくつかの防衛戦を制し、降り立った日本の地、日本武道館。
    アントニオ猪木との試合は、アリ側が決めたルールにより、プロレスの技をほとんど使えない猪木が、終始、マットに寝ころんでキックを繰り出す状態が続きました。
    試合は最終ラウンドまでビッグファイトもなく、結果、ドロー。
    消化不良を起こした会場のファン、そして全世界の視聴者から非難の言葉があびせられます。
    しかしアリの踊るようなステップは、日本人の目に焼き付きました。
    ベトナム戦争への徴兵拒否や、数々の暴言でバッシングの嵐の中にあっても、彼は生涯「闘う姿勢」を崩しませんでした。
    アリの激しい闘争心は、どこから来るのでしょうか。
    バラク・オバマが敬愛し、エミネムが影響を受けた世界チャンピオン、モハメド・アリが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    13 mins