• yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

  • By: TOKYO FM
  • Podcast

yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

By: TOKYO FM
  • Summary

  • 風も、雨も、自ら鳴っているのではありません。 何かに当たり、何かにはじかれ、音を奏でているのです。 誰かに出会い、誰かと別れ、私たちは日常という音を、共鳴させあっています。 YESとNOの狭間で。 今週、あなたは、自分に言いましたか? YES!ささやかに、小文字で、yes!明日への希望の風に吹かれながら、自分にyes!と言ったひとたちの物語をお聴きください。
    Copyright(c) 2024 TOKYO FM Broadcasting Co.,Ltd. All Rights Reserved.
    Show More Show Less
activate_Holiday_promo_in_buybox_DT_T2
Episodes
  • 第482話『つり合いの中で生きる』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】建築家 ブルーノ・タウト-
    Nov 23 2024
    都市計画と集合住宅のレジェンドとして知られる、ドイツの建築家がいます。
    ブルーノ・タウト。
    彼はヒトラーの台頭に危機を感じ、建築家仲間の知己を頼って、日本にやってきました。
    京都、仙台などに滞在したあと、1934年8月、群馬県高崎市のある小さな住まいに移ります。
    それが、少林山達磨寺の、心を洗うと書く「洗心亭」。
    滞在は予定を上回り、2年3か月もの間、日本での暮らしを堪能しました。
    彼がそのときの様子を記した日記や絵は、1930年代の日本を映す貴重な資料として、今も大切に保管されています。
    洗心亭は、6畳と4畳半、二間の質素な平屋。
    しかし、入ったその日に、タウトはここが気に入りました。
    建物を取り囲む、豊かな自然。木々のざわめき、鳥の声。
    障子から差し込む陽の光に、わびさびを見出す。
    もともと日本文化に傾倒していた彼にとって、そこは、楽園だったのです。
    日本にいる間、思うように建築家としての仕事はできませんでした。
    たまに設計の発注があっても、西洋風で斬新な建築を望まれ、いかにも日本風のデザインを推し進める彼との間に、深い齟齬が生まれてしまいます。
    それでもタウトは、洗心亭での暮らしだけで、十分、幸せでした。
    日々のうつろいを、丁寧に楽しむ生活。
    彼が建築で最も大切にしたものは、「つり合い」でした。
    建物自体のつり合い。まわりの環境とのつり合い。そこに暮らす人間とのつり合い。
    人生も、決して独善的であってはならない。
    必ず、一緒にいるまわりの人との「つり合い」の中で、生きていく。
    日本人が忘れていた「日本的な美」を提唱した、唯一無二の建築家・ブルーノ・タウトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show More Show Less
    12 mins
  • 第481話『見ること、聞くこと、感じること』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】小説家 徳冨蘆花-
    Nov 16 2024
    群馬県の伊香保温泉でこの世を去った、明治・大正期の文豪がいます。
    徳冨蘆花(とくとみ・ろか)。
    幼少期より病弱だった蘆花は、自分の心や体の変調に敏感でした。
    破天荒で自由人。時にわがまま、傍若無人。
    でも、こよなく自然を愛し、体を整えるために旅を好み、しばしば、伊香保温泉を訪れていました。
    自分に海が必要とあらば、神奈川の逗子で暮らし、山間を欲すれば、伊香保におもむく。
    そして晩年、妻と農業をやりながら住んだ地は、東京、千歳村粕谷。
    現在の世田谷区、蘆花公園です。
    彼の名がついた庭園には、今も旧宅が保存され、緑豊かな自然が残っています。
    徳冨蘆花の名を世に知らしめたのは、明治31年11月29日から国民新聞に連載された小説でした。
    題名は『不如帰(ほととぎす)』。
    主人公、浪子は、実家の継母に苛められ、嫁いだ先の姑に苦しめられ、やがて夫は日清戦争に出征。
    ひとりになった彼女は結核となってこの世を去る、というストーリー。
    流行の兆しがあった家庭小説というジャンル、そして、女性の苦悩をひたすら描いた斬新さと、結核という当時の感染症のリアルな描写に、読者は次号を待ち望みました。
    この小説は、「あ丶辛い! 辛い! ――最早(もう)婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。」という流行語を生みました。
    さらに、夫の出征を見送るシーンで、浪子がハンカチを振ったことを受け、「別れ」に「ハンカチを振る」ことがスタンダードになったと言われています。
    蘆花は、逗子にいた頃、ある女性から聞いた逸話を、『不如帰』という小説に脚色したと、自ら認めています。
    彼は生前、よく知人に話していました。
    「私は、見たこと、聞いたこと、感じたことしか、書けない」
    ゼロから想像して書くひとを決して否定はしませんでしたが、自分の流儀は、あくまで、自然主義。
    この世を美化しない。ファンタジーでごまかさない。
    そのことで周りとの軋轢を深め、時に誹謗中傷を受けましたが、彼は終生、己の主義を貫いたのです。
    あえて茨の道を選んだ作家、徳冨蘆花が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show More Show Less
    12 mins
  • 第480話『誰かの真似をしない』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】絵師 円山応挙-
    Nov 9 2024
    群馬県立近代美術館にその絵が所蔵されている、江戸時代の大人気・絵師がいます。
    円山応挙(まるやま・おうきょ)。
    応挙と言えば、先月、新たな発見を、ネットや新聞が大きく報じました。
    それは、絵師として人気を争った、かの伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)との初の合作屏風が見つかったのです。
    若冲と応挙、それぞれが得意とした題材を描いた、初の合作屏風。
    これは「驚くべき発見です!」と美術史家で、明治学院大学教授の山下裕二(やました・ゆうじ)さんは語ります。
    左の屏風、左隻は若冲が鶏を、右の屏風、右隻は応挙が鯉を描きました。
    発注者が別々にお題を与え、依頼したものだと思われますが、当時、人気を二分していた二人にとっては、まさに競作、競い合った、稀有な一品です。
    この作品は、来年6月21日から8月31日まで大阪中之島美術館で開催の「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」で公開されます。
    京都のひとに、いまだに「応挙さん」と親しみを込めて呼ばれる、唯一無二の画家、円山応挙。
    彼は当時としては珍しく、どの流派にも属さず、生涯仕えた師匠もいませんでした。
    室町から400年続く狩野派の勢いは止まらず、中国の絵画の影響も大きかったその時代に、なぜ、彼は独学で成功を収めることができたのでしょうか。
    貧しい農家に生まれ、10代で奉公に出てから30代前半まで、ひたすら食べるために働き、絵師として生計が立てられることなど、夢のまた夢。
    ただ、好きな絵だけは、画き続けました。
    しかも彼が大切にしたのは、目の前のものを正確に画く技術。
    愚直なまでに、今、見えるものを忠実にとらえる心。
    破天荒で芸術家気質のライバルたちと違い、ひたすら真面目に生きることで、彼はチャンスを得たのです。
    観るものを没入させる江戸時代の天才画家、円山応挙が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
    Show More Show Less
    12 mins

What listeners say about yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

Average customer ratings

Reviews - Please select the tabs below to change the source of reviews.